この頃、教師やエリート、聖職者、あるいは一流企業のトップや組織全体、政治家と言った中枢をなす人達などの関わる犯罪が増えている。モラル(道義、道徳、大義、倫理)の崩壊が始まっているのだろう。非常事態の警鐘が鳴ったとき、対処すべきマニュアルが無いと行動の規範を失ってしまう人が増えているのではないだろうか。自己を修め、人格、品格、気品を磨く人間学を学ばず(己を修めし者迷いなし)、幼いころから、厳しい受験戦争に放り込まれ、勉強する事(勉強が出来る)だけが何よりも大事であるという知識偏重教育の弊害ではなかろうか。勉強さえして、大人の引いたマニュアルに乗っ取ってさえいれば生きていけるという、安穏、安閑とした時代は終わったのだ。自己の精神を鍛え胆力を練る、己を知る、肚をつくる、心を磨く、己は何の為に存在し、何を成すべきか。愛ある心情の重要性とは?心静かに自己問答も良し。高潔なる人間性をつくる、そういう人間磨きの時を厳しく通過しながら自己をしっかり見つめてみる。心、精神、魂の時代でもある。
私が講演をする際に、世界各地の生死をさ迷うような人々と出会い、体感した状況などに話がふれると、聴衆の方々の驚きの表情と共に、会場の雰囲気が変わるのを感じ、涙する人も見受けられる。
私は体験したからこそ知りえた事なのだが、その体験によって己を恥じ、自我を知り深く考え、痛みを知り慟哭し、感じる感性の叫びを知る。体中が打ち震える事により、心の臓まで染み渡るえぐられる様な体験、その様な体験をしている方はごく少数のようだ。知識の量は豊富だが、その多くが机上で得たものが多いのではないだろうか?
現在の多くの教師の方々の中には、学校の中だけで育った学生が、学校の中へそのまま就職して教師となる事が多いと聞く。そうだとしたら、社会との接点を持たないままに「先生」と呼ばれることになる。今のこういったシステムは「無体験」な教師を作り出してしまうし、「社会人」としての経験、体験を経る事の出来なかった彼らは、当然視野も広がるチャンスが少ないのではないだろうか。実体験から培った心豊かな暖かい思いやりや慈愛の精神、許しの精神、凛とした愛ある人間性、寛容、寛大、忍耐、抱擁力、人情などの優しい暖かい人間性が見えてこない。「先生」と呼ばれる人に、人としての接し方や世間の流れがつかめない人が意外に多いと聞くのは、そんな理由もあるのではないか、と私は思うのであります。
私は、リーダーや聖職者、教師の方々等は、現場に赴任する以前に、5年位は一般社会で修行する、又、ボランティア活動等の何らかの実体的社会勉強をするべきだと思う。そういう実体験によって、生きる事の難しさ、人間関係の複雑さ、人間の傲慢さや愚かさ、社会の歪、機徴や表裏、金を得る事の大変さ等々、もっと幅のある考え方が出来る「指導者」が生まれるのではないだろうか。人間の幅や器、ゆとりというものは、経験、実体験、実践、或は、人間の「生」と「死」を体感し、最悪の状況や挫折等の体験をする事によって育まれるものであろう。己が痛みを知る事によって、人類、歴史の痛みを深く感じるのであろう。
殊勝な事を言うこの私も、実は恥ずかしくも、未だ己を極限まで追いつめ、禅を組み、自己の足らなさを恥じ、自己問答しながらの闘いの日々なのである。
嗚呼、憂国。
合掌
藤岡弘、