先人達は言葉を『言霊』と呼び、そこに込める「思い」や「深い意味」を 大切に、大切にしたものである。
我々日本人が話す、「日本語」は昔から人を敬い、自らの分をわきまえ、 相手を立てるという精神が内包されている。
「普通語」「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」といえば分かりやすいだろう。 他の言語にはこういった考え方はあまりない。 これは日本人がいかに言葉を大切にし、また話す相手を気づかってきた
民族であるかという証拠ともいえる。
インターネットも進化して、今はかなりの画像も送れるようだが、 やはり言葉を通じてのコミュニケーションであることには違いない。 そうである以上そこにはやはり、先人達からの日本語の精神が
受け継がれて欲しいと思っている。
<SAMURAI-DO>や、ファンクラブ<HIROSHI-DO>にも 様々な意見が寄せられている。 暖かい励ましや、応援も数多く頂くが、やはり現実それだけではない。
10人いれば10通りの考えがあるように、私の考えとは合わない人も もちろん大勢いるだろうから、当然のようにお叱りの意見も頂戴する。 悲しいかなその中にはお世辞にも誉められない言葉遣いの文章も含まれている。
私は自分の意見を押し付ける気持ちはないし、違うと思えば、 それでいいと思う。離れる人もいて当然だし、それはそれで構わない。 ただ、願わくば<SAMURAI-DO>と<HIROSHI-DO>の中で、
私の投げかけた言葉から、様々な意見が生まれ、ぶつかり合い、 そしてやがて融合し、また、違う新たな考え方が生まれればいいと思っているのだ。
意見が違うからと言って、人を決めつけたり、中傷したり、疎外したりということからは 何も生まれないし、人を責めればいつか自分に返るのではないかとも思う。
視野を拡げ、他人の考えを受け入れ、理解する。 それによって、人はまた違う自分を手に入れることが出来る。 それこそが「学び」であり、私が<SAMURAI-DO>や<HIROSHI-DO>を通じて、
皆さんと分かち合いたいことである。
「清濁併呑」の気持ちをもって、参加していただけることをお願いしたい。
言葉は、使い方によっては人を傷つけ、時には殺すことも出来る。 しかしまた逆に、言葉は人に勇気を与え、活力を生みだし、 人に大いなる力を与えることが出来る。
「言霊」は「こだま」ともいわれ、「やまびこ」と同意語でもある。 自分の発した言葉は、必ず自分に返ってくる。
愛をもって話せば、相手も愛をもって答えてくれるだろう。
感謝をもって話せば、相手も感謝の気持ちを抱くだろう。
尊敬をもって話せば、相手にも尊敬の念が生まれるだろう。
感動も持って話せば、相手にも感動が伝わっていくだろう。
言葉には「魂」が宿る。 そこに込められる「魂」が本物で、美しいものであればこそ、
人に感動を与えることが出来るのではないか。 こんな時代だから、言葉に込めた「愛」で人々に 勇気が与えられたら、素晴らしいことだと私は思うし、 また、そうでありたいと願っている。